執筆者 西村 | 2025年12月04日 | 雑記帳
四大聖人と言われる釈迦、イエス、孔子、ソクラテスを見ると、独身か家庭生活に失敗した方がほとんどです。家庭生活で成功していない方が、人類の基本的な教えを説いているので、順風満帆な家庭生活を営むということは、かなり難しいものだろうと言えるのではないでしょうかや親も捨てて修行しました。イエス様も公式には結婚していないこととなっています。マグダラのマリアやサロメなど、幾人か奥様らしき者は存在したのではないかと思える記述が、聖書の外典には出ていますし、「子供がいたのではないか」という説もある事はあるのですが、いずれも公式には否定されていると思い...
執筆者 西村 | 2025年03月22日 | 本当の終活
ソクラテスが『パイドン』の中で「知を求めると言うことは『死の練習』である」と語っていますが、これはなかなか理解し難い事であると思います。私は「今日死んだとして、悔いの無い生き方をしているかどうか、自問自答して生きろ」と言われている様な気がします。すなわち「あなたは今日死んだとしても『今までの人生を完全燃焼した』と言えるか。『今日一日、十分に使い尽くせた』と言えるのか?」と問われているのだと思います。「死の練習」すなわち「死んだとして、どうだ?」と言うことを自分に問い続けると言うこと、それが結局、真理を求めた生き方になるわけであり、「死...
執筆者 西村 | 2025年03月17日 | 雑記帳
「哲学とは何のためにあるのか」という問いに対し、今の哲学者は明確な答えを持っていないかも知れません。いや、もしかしたら「答えられない」のかもしれません。もしソクラテスやアリストテレスが生きていたら「善を求めること」と答えたのではないかと私は推測します。「善を求めること」という事が、結局は「幸福の基」であり、「人間が幸福になる」と言うことはどう言うことかと言うと「善を求めて生きる」と言うことに、繋がって行くのだと私は考えます。「善を求めて生きる」その「善」とは何かを探究して行くのが「愛知者の使命」であるのでしょう。「これが善である」と、...