「差別はいけない」と、どんな国でも組織でも声高に叫ばれていますが、ある意味あまり言い過ぎると怖い面もあるのでは無いかと、私は思ってしまいます。
と言うのも、肌の色の差別は行けないと過剰になるばかり「大学には何%かの有色人種を入れないといけない」と規定され、成績の良い人が入学出来ない事態が起きたりもしています。
また会社の役員には何パーセントかの女性がいなければ行けない、となって慌てて女性を役職者にしたりする企業もあります。
確かに性別や人種、肌の色や出自によってチャンスの不平等が起きるとなると、これは是正して行かなければならない問題だとは思います。
しかし、結果の平等まで行き着くと「公平性」を失っていきます。
例えば、努力して良い成績を残した白人男性と、成績は彼より落ちる黒人の女性が、そのままの成績では入ることが出来ない大学に、その白人男性の代わりに入学できたとしたら、それは公平性を超えた一つの差別だと思われても仕方がありません。
成績優秀な白人男性が黒人だったら問題なかったのでしょうが、結局成績よりも肌の色が優先されるであれば、それは形を変えた人種差別に他なりません。
こうしたことが、日本でも様々な組織内で起こっております。
「優劣を決めるのは子供達が可哀想だから、徒競走のゴールは皆んなで手を繋いで一緒にゴールしましょう!」
これでは、運動会の為に一生懸命に練習して来た子供達も、してこなかった子供達も一緒になってしまいます。
こんな結果平等が蔓延れば、人は努力することが馬鹿らしくなって、社会全体が退化していくこと目に見えています。
「差別撤廃と言いながら、結果平等を認める社会になっていないか?」が問われている気がしています。