「お金は善なのか?悪なのか?」という議論が、古来よりあります。
お金を持つことで幸せになる人もいれば、不幸せになる人もいます。
全ての人が平均的な中流生活をしていける事が、果たして社会正義であり、善なのか。
それとも、その中に富裕な人が傑出して出てくる事が善なのか。
あるいは、全ての人が等しく貧しいのが善なのか。
この善悪の問題は、歴史的にも非常に難しい内容を秘めています。
近現代においては「貧しさの公平分配ではなく、豊かさの公平分配を目指す。」と言う社会が出現してきました。
では何故、豊かさの公平分配ができるようになったのでしょうか。
この百年余りの近代国家の動きを見てみると、「一握りの優れた起業家たちが出て、大きな事業を起こし、その事業によって、裕福になる人を沢山創り出した。」という事に原因があるように思います。
木で例えるとするならば、「非常に大きな木が育つ事で、その大樹の緑の下に憩い、その恩恵を受ける人が数多く出てきた。」ということではないでしょうか。
つまりは、通常宗教において、批判の矛先を向けられがちな「金儲け」と「優れた経営」とは若干の差があるという事です。
「優れた経営」は、「多くの人たちを養い、幸福にしていく為の経済原理、およびその行使において善である。」と言えるのではないでしょうか。
