「時は矢のように飛んでいく」と良く言いますが、これは「時間が過去、現在、未来と進んでいくさま」のことを表している表現だと言えます。
しかし、時間は鉄道模型の線路のように、輪っかになっているとしたら、どうでしょう。
過去、現在、未来、過去、現在、未来…とループしていたら、未来にも過去にも行くことが可能になります。
すなわち、タイムマシンの制作が可能と言うことになります。
「『時間』という永遠にも近い、出来上がった線路の上を、ただ私達は走っているだけ」だとしたら、今の私達は視点を変えると、「未来に生きている」とも言えるし、「過去に生きている」とも言えます。
また「人は同じ時間を生きているようだけれど、実際にはそれぞれの時間を生きている。」と言う人もいます。
どういうことかと言うと、母親が自分の子供のまだ小さかった頃の事ばかり覚えていて、その頃のことにずっと浸っていたり、子供が小さな頃に不運にも亡くしてしまって、ずっとその頃のことを悔やみ続けていたとしたら、その母親は今現在を生きているようだけれど、「子供が亡くなったところで、時が止まっている」と言えなくもないと考えられます。
時間は、実は「人間が尺度を作り、存在しているように見えているだけ」であって、「あると言えばあり、無いと言えばない。」そんな曖昧なものであるかもしれません。
これは「観念論的な時間論」になるのかも知れませんが、多くの人は「相対的な時間」を「絶対時間」のように捉えて、生きているだけかも知れません。