「看取り」には「看取られる」場合と「看取らせる」場合があります。
本来は年寄りの役割は「自然死」を家族に「看取らせる」ことにあるかと思います。
「看取らせる」と言う言葉には、強制的な意味合いが含まれている感じがしますが、そこには大きな愛がある様に思います。
「こうして年老いて自然に枯れてゆく自分の姿を、子や孫達に見て死と言うものを学んで欲しい。いずれは自分も死ぬことになるのだから」と言う想いもあるでしょう。
また「最期に逝く時には、大切に想って来た家族に見守って逝きたい」と言う願望もあるでしょう。
ですので「看取らせる」場合は、本人の決心、希望以外に「信念」と「覚悟」も必要になってきます。
「介護してくれる家族に負担が掛かるから」とか「症状が急変した時の対応に不安がある」とかの理由で、殆どの家庭で「在宅死」は選択され難い状況です。
でも自然界では、熊や狐やうさぎでも目の前で、病気やケガや、時には食べられてしまって、自分の大切な家族を失う事が多いと想像が出来ます。
彼等はそんな過酷な状況であっても、その中から「生きている」大切さと「生きて行く決意」を学んでいるのかも知れません。