アリストテレスは「人間は幸福を目的とする」と言いましたが、幸福になる為には、色々な行動、言動、活動に対して、自由が与えられなければなりません。
同じ様に、チャンスも平等に与えられなからば、幸福になる機会が偏ってしまいます。
例えば、学校を選択する自由、意見を発表する自由、職業を選べる自由、どこへでも移動できる自由などがなければ、私達は籠の中の鳥達の様な、制限された自由とチャンスのみになってしまいます。
当然、幸福も限られたものにならざるを得ないでしょう。
チャンスが平等になされたら、その結果においても公平でなければいけません。
「チャンスが平等だから、結果についても平等にする」と言うことでは、ギリシャ神話に出てくる「旅人をみんな一緒に扱う宿」の様になってしまいます。
その宿では、宿泊者のベットの大きさは決まっていて、そのベットの大きさよりも大きい人は、足を切り落とし、ベットより小さければ引き延ばすと言う、残酷な宿屋の主人の話が出てきます。
この宿屋の主人のような考え方が、全体主義の根本である様に思えます。
支配者や権力者は、時代に合わせて人を創ろうとしますが、神仏は人間やそこに住まう動植物たちに合わせて世界を創ろうとします。
自分の為の世界を創ろうと藻掻けば藻掻くほど、神仏からの御心から離れて行ってしまうという事になります。