「悟り」と言うと皆様は、どんなことをイメージするでしょうか。
「お坊さんが修行している」とか「坐禅を組んでいるとか」そうした、仏教関係者が何かを精進している姿が想い浮かぶかも知れません。
しかし「悟り」は、日常的に私たちの中にもあるとされています。
「こう言う態度をとると、他人は喜んでくれる。」とか「人間社会は、こうした原理原則で動いている。」とか、その人が経験や智慧から学んだことが「悟り」のように感じられる時もあります。
その感覚は、あながち間違いではないかも知れません。
但し、その悟りにも段階があります。
仏教ではその段階を「預流(よる)」「一来(いちらい)」「不還(ふげん)」「阿羅漢(あらかん)」「菩薩五十二段階」「仏」と分けています。
因みに「東海道五十三次」は「菩薩五十二段階」と「仏」を足した「五十三」から来ていると言われています。
これだけの悟りの段階がありますので、なかなか仏までは遠い道のりです。
しかし、阿羅漢まではどんな人でも生きているうちに到達が可能であるとも言われています。
阿羅漢とは「生きていながら、この世的な視点では、もはや無い状態。」のことを指しますが、その状態の維持が極めて難しいと感じてしまうのは、私だけではないでしょう。
「一瞬、阿羅漢」「瞬間、菩薩」は可能でしょうが、生涯を通して、その心境を維持できるかどうかが、その人の魂のレベルであると言えるから、人生は修行なのでしょうね。