「執着はいけないこと」
その様に捉えている方が多いかと思います。
しかしながら執着に対する考え方が人それぞれなので、一概にその方が言う執着が「無い方が良い」と言えないと言うのが現状かと思われます。
一般的な事を言いますと、執着とは「トリモチ」に例えられます。
トリモチとはネズミや鳥や昆虫などを捕まえる時に使われるベタベタとした餅のよう物質のことで、主にモチノキの樹皮から作られています。
このトリモチに捕まるとベトベトがくっ付いて来て、なかなか取れません。
執着も何度も振り払ってもベトベトと、くっ付く粘着質な念いに似ています。
「楽しいこと、嬉しいことであれば執着ではない」と言う方もいらっしゃいますが、そうとも限りません。
例えば、親の子供に対する愛情も、親からすれば当たり前、子供が成長してくれる姿を見るのは楽しいことですし、子供が喜んでくれれば嬉しいですよね。
でも、過度な愛情は子供への執着となって、トリモチのようにベッタリと取り付き、子供からするとたまらない状態になります。
子供からすると自由を奪われて、まさに「鳥の籠」状態になってしまうこともあります。
こうした過度な愛情を「親の愛だから執着では無い!」とは言い難いのではないでしょうか?
人の想いや行動を、自分の念いで縛り付ける事を執着と言うのだとお釈迦様も仰っています。
お金や物に執着する人は、そうした物質に心がベッタリと囚われている状態であると言う事です。
子供にも、お金にもトリモチのようにベッタリとならず、サラサラと流れる小川のように、自分の心が囚われないことが大切だと言う事で、お釈迦様は「執着心は捨て去りなさい。執着するものが有ればあるほど、三途の川は重たくて渡れなくなりますよ」と教えていたのでしょう。