仏教の説話に「底無し釣瓶で水を汲む」と言う話があります。
釣瓶の底が抜けていたら、井戸の中に落としたところで水は汲めません。
それでも、上げた釣瓶には多少の水滴が付いているから、それを少しずつ少しずつ樽に移し、何百回も続けるうちに、水が樽いっぱいになったというお話です。
ここに、人間の努力の儚さのようなもの「やっても、やっても少ししか進まない」という何とも言えない努力の無常さを感じてしまいます。
練習や修行をしていても、結局は底無しの桶、釣瓶で水を汲んでいるようなもので、何滴か取れた水滴を、少しずつ少しずつ樽に溜めていっぱいにするような感じがするのではないでしょうか。
こうした、なんてことない無駄な努力に思えるような「凡事」の中には、虚しく感じてしまう時があるかも知れません。
しかし、続けていくことによって、少しは前進していくことがあり、それを続けていくことによって「自分自身が、昨日までの自分自身でなくなること」を止めている部分もあるということ感じます。
