日本の戦国時代には「二兵衛(にえい)」と言われる、2人の軍師がいました。
一人は竹中半兵衛、もう一人は大河ドラマにもなった黒田官兵衛です。
二人とも豊臣秀吉に仕えた軍師でしたが、竹中半兵衛の方が少し先輩格にあたります。
ただ、黒田官兵衛の方は秀吉を怖がらせた人でもあったようで、秀吉は「わしの後は、若しかしたらアイツに天下を取られるかもしれん。あまり大きな領地や部下を与えたら、反旗をひるがえすかもしれん。」と言って恐れたというような話が残っています。
中国の漢の時代に、劉邦が「韓信にやられるのではないか。」と怖がっていたのと、同じ感じを受けたのかもしれません。
勿論、黒田官兵衛は軍師であって将軍ではなかったので、それくらいの頭の良さがあったのではないかと思います。
有名な話では、秀吉が備中高松城の水攻めをしている時に「信長が本能寺で光秀に討たれた。」と言う情報が入った時です。
秀吉はすぐに街道を封鎖して、敵に知られないようにしながら、城主の清水宗治に切腹を命じたといわれています。
水攻めで、城は湖に浮かんでいるような状態だったので「舟に乗って出てきて切腹すれば、他の皆んなは助けてやる。」と伝え、速攻で片をつけたのです。
それから十日あまりで「中国大返し」をして光秀を討ったわけですが、その余りの速さに信長の他の部下は追いつけませんでした。
この大返しにも黒田官兵衛は動いていたと言われています。
