歴史家の長年の疑問として「豊臣秀吉の中国大返しが可能となったのか?なぜ毛利軍の追撃が無かったのか?」は良く挙げられます。
明智光秀によって織田信長が討たれたという知らせが入った直後、直ちに毛利氏と和議を結び、秀吉軍2万の軍勢は備中高松から取って返し、約200キロ離れた山城国山崎の地で光秀軍と戦闘しました。
その際に重要な伏線的出来事として「高松城の水攻め」があります。
秀吉が、備中高松城を水攻めするための堤防工事で、農民などを動員し、「土嚢一俵につき米一升、銀百文」という高額な報酬を与えることにより、わずか12日間で城の周りの沼地に、高さ7メートル、総延長3キロの堤防を築きました。
その後、上流の川を決壊させ、城を水没させました。
城ごと水没させるということは、空想で考える人はいるでしょうが、実際にやってのける人はいないでしょう。
この衝撃は、高松城の武士達にとってはかなり大きいものだったと思われます。
それが証拠に、城主そのものが「私の首に代えて、みんなを助けてあげてくれ。」と言って来たぐらいですから、大変な恐怖だったのでしょう。
その後トップが切腹してしまいましたので、家臣は喪に服し、戦闘意欲が上がるはずもありません。
「中国大返し」が成功した要因として、高松城の水攻めは、かなり大きな要因となったことは間違いないでしょう。