「あの人、器が小さいね」とか「器が大きいから、許せるのね」とか、「人の器」について、話すこともあるかと思います。
それでは「器が大きい=悟りが高い」と言えるかと言うとどうでしょう。
だいぶリンクしている感じはしますが、全く「同一」とは言えない気がします。
そもそも「悟りってなに?」のところから考えて行かないといけませんが、私のブログをお読みいただいている方には言うまでもないかも知れませんね。
私は「悟りの高さ=真理の豊富さ」と定義付ける事が出来るかと思ってます。
真理とは「普遍的な宇宙の法則」と言い換えることも出来るでしょう。
つまり悟りの高さとは、どれだけ「真理の智慧を持っているか」と比例してきます。
従って、「器の大きさ」と「智慧の豊富さ」とは必ずしも比例しないことが、頭の良い皆様なら直ぐにピンと来るかと思います。
「頭でっかちで真理知識は沢山持っているが、人間的な器としては如何だろうか?」と言う人が、あなたの周りにもいるかも知れません。
そういう人は一見すると人格者の様に思えるけれど、教える生徒を選び、少人数しか弟子に持たない先生や師匠は、何故か近寄りがたい存在に思えて親近感が湧きません。
本来、器が大きいほど、人間に関する許容範囲も大きくなり「どんな人でも受け入れる。どんなに人が離れても気にしない。」そんな先生や師匠が「器の大きい人物である」と言えるのではないでしょうか?
この人間的器と悟りのバランスは非常に難しく、名を残したの聖人君子であっても「修行の余地として必ず残されるところ」と言われています。