長考に好手なし

長考に好手なし

「長考に好手なし」とは、将棋などの戦略ゲームにおいて、長い時間考え込んだ末に指した手は、良い手になりにくいという格言です。じっくり考え込んで行うことは、一考すると最善の手を探すために有効な手段のように思えますが、実際には迷いや焦りから、本来の力を発揮できなくなることが多いという経験則を表しています。また、こうしたことから「直感」で行動した方が良いのではないかと言う考え方も出てきます。危険に対して熟考していたのでは、命が幾つあっても足りません。それ故に、大脳基底核と言う運動制御、習慣形成、意思決定に関与している部分がフル稼働して、自分自...
言論の質

言論の質

現代社会は、言論の自由に基づく権利の行使によって、権力者の首をすげ替える事ができる「永久革命」の社会ではありますが、「言論の質のチェックはどのようにするのか?」という問題は残っています。言論機関の権力については、日本国憲法には何ら規定されていません。「言論機関、報道機関はどれだけの権力が保障されているのか」ということについては、明記されていないが為に、今のところ無制限の状態になっています。「真理という観点から見たときに、報道の姿勢や言論の方向は正しいのかどうか?」という事については野放し状態です。教育は、そうした言論や学問の方向性の下...
動物農場

動物農場

1900年代に活躍したジョージ・オーウェルの著作に「アニマル・ファーム(動物農場)」という作品があります。農場で人間に飼われている動物たちが反乱を起こす物語です。その小説で鶏は「私達雌鶏は、本当は雛を育てたいのに、毎日卵を産まされて、栄養価が高いので人間に食べられている。それだけの犠牲を払っているのに、人間は卵を産まない。けしからん!」というような事を言います。また牛は「私達牝牛は牧草を食べたり水を飲んだりして、毎日ミルクを出している。それを牛乳として飲んだり、チーズやバターに加工したりして、人間の役に立っている。しかし、人間は搾取す...
人間とは?

人間とは?

最近「人間学」という言葉をよく見るようになりました。「人間学とは、人間とは何か?を様々な角度から探求する学問」という定義がなされていますが、「届きそうで届かない」もどかしさを感じる学問のような気がします。人間の外見を科学的アプローチから観れば「医学」になるでしょうし、思想や考え方など心的面から観察すれば「心理学」や「哲学」にもなっていくでしょう。「人間の外見にソックリなロボットは人間であると言えるのか?」と言うようなテーマの映画もありましたが、果たして映画の結論の様に「感情のある無し」で人間かどうかを判断できるのでしょうか?人間そっく...
キリスト教と哲学

キリスト教と哲学

キリスト教が、世界宗教となる転換点が3回あったとされています。1回目はパウロによる伝道です。キリスト教を迫害していたパウロ(サウロ)か回心したことで、キリスト教の伝道が大きく動きました。2回目はアウレリウス・アウグスチヌス(聖アウグスチヌス)の登場でしょう。彼は「神の国」という大著を残し、古代キリスト教において、最大の影響を及ぼしたと言われています。3回目はイタリアのトマス・アキナスが挙げられます。彼は哲学者でもあった為、「哲学大全」や「神学大全」を著し、スコラ哲学を大成させました。彼らによって、キリスト教は哲学と結びつき、「教育によ...
悪の凡庸さ

悪の凡庸さ

第二次世界大戦におけるドイツに対して、ユダヤ人政治哲学者のハンナ・アーレントは「全体主義」「帝国主義」「権威主義」国家という危険的な体制が存在することを指摘しました。また、戦後裁判によるドイツのアイヒマン(列車に大勢のユダヤ人を乗せて、ポーランドのガス室収容所に送った責任者)に対して、「悪の凡庸さ」という言葉を使い、同胞であるユダヤ人から多くの批判を受けました。彼女は「アイヒマンは特別な悪人ではない。役場の職員を連れてこようと、市会議員を連れて来ようと、国家公務員を連れて来ようと、アイヒマンの立場に立ったら、全員同じことをするだろう。...