執筆者 西村 | 2023年07月19日 | 雑記帳
「私はこうして生きてきたから、これからもずっとこのまま生きて行く」「私は独りで何でもやってきたから人の助けは借りない」「私がこうして成功したから、あなたも私と同じようにすれば良い」など、人生経験が増えると新しいことや冒険はしたくなります。でも、心にあまり柔軟性がなくなると、まるで心が陶器のボールのように固まり、何に対してもワクワクしなくなり、楽しくなくなってしまうようです。まるで陶器で出来たボールが、少しも弾まず直ぐに壊れてしまうように…逆に、スーパーボールのように柔軟性があると、良く弾み、変形はするけれど中々壊れる事はありません。「...
執筆者 西村 | 2023年07月18日 | 雑記帳
感謝の気持ちを持つには「自分がどれだけ生かされているか」を知る事が必要です。人はどんなに強がっても自分一人で生きて行く事は難しい。無人島で強制的に独りで生活をさせられない限り、現実的にたった一人の力では生きて行く事は出来ないでしょう。また感謝した事がない人には愛が分からないでしょう。「人を愛した事がないと言う人」は「人に感謝した事がない」人とイコールかもしれません。或いは「人を愛したことがないと言う人」は、人と言わず、天地万物に感謝した事もないでしょう。感謝と愛とは表裏一体です。「自らが多くのものを与えられる生かされている」と言うこと...
執筆者 西村 | 2023年07月17日 | 雑記帳
「しょうご」と読みますが、仏教における反省行の一つです。「間違ったことを他人に伝えていないか」「嘘をついて他人を騙していないか」「過度な御世辞を使って惑わしていないか」「他人の悪口、陰口を言っていないか」「二枚舌を使う様に、その場限りの逃げの言葉を使っていないか」など、お釈迦様は言葉に関する戒めを説いておりました。言葉はそれ自体で人を幸せにする事も出来れば、不幸のドン底に落とす事も可能です。だからこそ、自分の発した言葉には責任が伴います。もちろん、メールやコメントなど文章でも同じです。誹謗中傷の特定の個人を刺すような文書は、受け取った...
執筆者 西村 | 2023年07月16日 | 自分史, 雑記帳
反省と言うと「自分が言ったこと、行なったことに対して間違いはなかったか?」「自分の言動で他人を傷つけてしまわなかった?」など、どちらかと言えば消極的な反省のことを言っているかと思います。もちろん自分を磨き、周りの人達との調和を保つ為には、こうした消極的反省もとても大切ですが、その上の反省が存在することはなかなかご存じの方は少ないように思います。「社会や組織に対して、自分は機会があった筈だったのに成し得なかった」「こう言う思いを出すことが出来たのに出すことを躊躇ってしまった」「あのチャンスにこう言うことが出来たのに行動を起こすことをしな...
執筆者 西村 | 2023年07月15日 | 雑記帳
私達は日々、心があっちこっち絶えず揺れ動いております。まるで壊れた天秤のように。神様の目から見れば、私他の心が天国的な方に傾いているのか、地獄的な方に傾いているのかははっきりと見えているのでしょうね。その心の天秤と言う奴は、愛と言う分銅があれば天国に傾き、執着と言う分銅が沢山あれば地獄の方に傾いて行くようです。執着の重りを自分で取り去ることが出来れば良いのですが、なかなか簡単に取り除くことが出来ないと言うのが現状です。それならば、その重りを分銅を周りにいる人達が取り去ってあげれば良い。執着で、嫉妬心で、重く頑なになった心を軽くしてあげ...
執筆者 西村 | 2023年07月13日 | 雑記帳
真珠を創るアコヤガイにとって、最初から最後まで真珠は異物でしかありません。しかし彼らは、体内に入った異物を虹色に輝く真珠に変化させます。私達人間はアコヤガイ以上の存在であるならば、異物や変化をアコヤガイ以上に見事な真珠に輝かせる事が出来るはずです。異物を真珠に育てている時は、痛くて辛くて苦しいかも知れませんが、人生が終わる時に、その異物を真珠のように美しい想い出に変える事が出来たとしたら、どんなに幸せな事でしょう。「自分の人生の中にやって来た苦難困難はムダではなかった」と自信を持って振り返る事がきっと出来るはずです。真珠のような涙を流...