「人は各人が幸福になる権利を持っている。誰もが幸福になりたいという権利を持っている」ということにおいて平等です。
そして「未来を拓きたい」という気持ちに対して、その可能性は全ての人に与えられています。
ところが、この世の現実としては、色々とあって思うようにならないことがあります。
勉強であっても、出来る人、出来ない人がいます。
お金についても、豊かになる人もいれば、ならない人もいます。
あるいは、家を建てることが出来る人もいれば、出来ない人もいます。
結婚出来る人もいれば、出来ない人もいるし、結婚生活が上手くいく人もいれば、上手く出来ない人もいます。
やはり、それぞれ幸福になる権利は平等であっても、現実には様々な違いが出てくるのです。
色々なことを自由にやっている範囲内で、差がついてくることがあるということです。
「自分も幸福を求めているけれども、他人もまた幸福を求めている」ものです。
時には、自分が幸福を求める範囲内で、他の人に迷惑をかけたり、他の人を犠牲にしたりすることがあったとしても、それには限度があるわけです。
お互いに他の人に迷惑をかけたり、犠牲にしたりすることがあるからこそ、その分他の人のためになるようなこともして、埋め合わせをしていかなくてはいけないのが、世の中の理であり、約束事ではないでしょうか。
そういう意味では「お互いに不幸にならないようにするには、どうしたら良いか」という考え方から、全てを見なくてはいけないこともあります。
こうした「人間の心における正しさが、値打ちを持っているのだ」ということを追求することが、本物の宗教の仕事なのではないでしょうか。
他の人の迷惑にかけることやっていても「教祖や幹部が言う通りにしていれば救われる」という、狂信的な信仰心を持つことが、宗教ではないと思うのです。