執筆者 西村 | 2025年07月26日 | 雑記帳
最近は特にお会いする事が少なくなった「潔い人」「いさぎよし」とは、例えば失敗をしても、変に取り繕ったりするのではなく、ミスはミス、失敗は失敗として認め、謝るときには謝って、後始末をしっかりとする人のことを指すように思います。まるで、ドラマや映画に出て来る武士のようですが、きっと武士の中にも潔い人とそうでない人がいたことでしょう。潔い人に出逢うと、こちらも気持ちが爽やかになります。頭の回転が良く、知識が豊富な人が増えて来た現代、ミスや失敗を指摘すると「様々な言い訳を理路整然と述べる人」がいらっしゃいますが、言い訳されるとなんだか逆襲され...
執筆者 西村 | 2025年07月25日 | 雑記帳
私もそうでしたが「他人にしてあげたことは忘れず、他人からしてもらった事は簡単に忘れる」そんな人間でした。ですから「してあげたのに、感謝の言葉もないのか」等と憤ってしまったことも多々あります。(笑)皆様の周りにも、ギブアンドテイク的に親切を考えている人が、そこそこの人数いるはずです。言葉にはしないけれど、明らかに「助けてあげたのに、その態度取るの?」的に接する人達が結構いた事を思い出します。こうした方々は、日本では特に、人格的に「未熟者」と呼ばれ来ました。「武士は食わねど高楊枝」という言葉は、もともと「貧乏侍が食べ物に困っても、プライド...
執筆者 西村 | 2025年07月18日 | 雑記帳
競技カルタの映画で「ちはやふる」というタイトルのものがありましたが、「ちはやふる」とはどういった意味なのでしょう。ネットや広辞苑などで調べれば「激しい勢い」とか出てくるかと思います。では「あらぶる」とは、どう違うのでしょうか。この二つの言葉の違いを表すのに、回る独楽(コマ)を想像して貰えればと思います。ちょっと前に子供達の中で、「ベイブレード」と言ったベーゴマの遊びが流行っていた時もありました。あのベーゴマ様に、コマがまるで止まっているかの様に、綺麗に回り続けている様が「ちはやふる」で、激しく全体を他のコマにぶつけながら回る様を「あら...
執筆者 西村 | 2025年07月16日 | 雑記帳
基本、人を枠にはめることは余り好きではないので、あまりお話していませんが、鑑定の一つに「統計学的枠組み」というのがありますので、敢えてやってみたいと思います。(現代科学は殆どが「枠組み創り」と言っても良いかも知れません)あなたに関わる人4種類。①葉っぱのような人この種類の人は、調子が良い時には寄っては来るけれど、こちらの調子が悪くなると離れていく人。日和見的な深くない関係の人という感じですね。②枝のような人悩みを聞いてくれたり、相談に乗ってくれたり、ちょっと深めに関わるけれど、あまり重すぎるとポキッと折れてしまう感じで、離れてしまう人...
執筆者 西村 | 2025年07月13日 | 雑記帳
「原因結果の法則」すなわち「因果の理法」は宇宙の真理と言われています。何かをすれば、何らかの結果が生まれます。原因を作れば、必ず結果が付いてきます。これが時間を作っている原理原則であり、これを何人も覆すことは出来ないとされています。従って悪い事をすれば、自分に対して悪い事が必ず返って来ますし、良きことをすれば良きことが舞い込んできます。例えそれが、この世で完結しないとしても、あの世という世界を信じた時に、悪い行いをした者は地獄に落ち、良き行いをした者は天国へ帰ると言うことを、古今東西の多くの宗教が伝えている事は周知の事実でもあります。...
執筆者 西村 | 2025年07月06日 | 雑記帳
仏教の教えから生まれた坐禅は、もともとは瞑想や公案(人生の問題や課題)を、心の内で考えて行く時に必要とされる「静かな状態を保つ」ことから発生しました。のちに、達磨大師が中国に禅宗として伝えてから日本にも伝わって来ました。今では外国から、この坐禅を勉強するために来日する人達もいらっしゃいます。坐禅の目的は「悟りを得るため」とか「平常心を養うため」とか言われておりますが、真の目的は「不動心の獲得」と仏陀は語っています。もともと仏教は「人生の苦しみや迷いの大部分は、心が揺れることに起因する」としている為、「揺れない心を創るためには、どうした...