人生において、人それぞれに様々な目的があるかと思いますが、多くの方に共通する目的として、私は「智慧の獲得」をあげたいと思います。
それでは「智慧とは何か?」と問われたら、私は仏教で言う「悟り」若しくは「真理」と答えるでしょう。
だからと言って、難しく考え過ぎることはないかと思います。
例えば、これまであなた自身が得た知識と経験を材料にして、人格を練磨して得た「考え方」や「教え」が「智慧」だと私は思っています。
だからこそ、この智慧はどなたにお伝えしても、ためになる教えにもなるし、人生においての参考書にもなり得ます。
文殊菩薩は右手に剣、左手に経典を持っています。
この右手の剣は「文殊の利剣」と言われ「執着や迷いを断ち切るための剣」であり、智慧の象徴でもあります。
「智慧の利剣で、物事の正邪を分かち、自分の執着と迷いを断ち切れ」と言うお釈迦様の教えから来ています。
また、「勇気」は一つの情熱であり、行動力の源泉です。
しかし、勇気は智慧がないと蛮勇になり、自分自身が破滅するだけでなく、多くの人を道連れにすることもよくあります。
勇気に方向性を与えるのが智慧であり、勇気と智慧が一つになることで「正義」という形になってきます。
正義を正義たらしめるものは、やはり智慧の部分です。
爆弾を身体に身につけて、自爆するテロ行為には行動力も要りますし、勇気も必要でしょう。
爆弾で多くの人の命を奪い取ることが、本当に天下万民が幸福になる為の方法なのか、と言うことについての智慧が足りないが為に、彼らは「正義」と認められないのです。
正義は「公的幸福」を得るために必要なことであって、私的な幸福の為に使われてはいけないのです。
「自分が天国へ行きたいから自爆」するのであっては、私的幸福のみであり、公的な幸福は決して得られません。
従って「信仰」も「愛の実践」も智慧がないと正しいかどうか分かりません。