現代の学問の基礎を作ったのはアリストテレスとされていますが、その師匠プラトンの、そのまた師匠がソクラテスです。
そのソクラテスは、「学問の始まりは対話篇から始まる」としております。
プラトンが書いた記述を見れば分かるように「真理を発見して行く過程は、対話からなされている」ということです。
ある人が疑問に思ったこと、不思議だと感じた事柄を、対話して行く中で、一つ一つ解きほぐし、まるで筍の皮を一枚一枚剥がして行くような感じで、真理の核を見つける感じなのでしょう。
「何のために学問をしているのか?」と現代の学者がソクラテスに問われたら、どう答えるでしょうか?
その答えは、おそらくソクラテスの意に沿わない答えが出てくると想像出来ます。
ソクラテスにとって学問は「神の理を見つける作業」ですので、始発駅と終着駅がハッキリとしております。
方や現代の学者達は「始発駅も分からなければ、終着駅も分からず、途中なんだか分からず電車に乗って、途中で下車している」そんな感じかも知れません。
自分達が「どこに向かっての学問しているのか?」「どこを目指して探究しているのか?」「本当の終着駅は何なのか?」について、実は分かっていない中で、寿命が来てしまい、途中下車してしまう感じなのかも知れません。
でもそれは仕方ないことなのでしょう。
何故なら、終着駅を指し示してくれるソクラテスの様な賢人が、そばに居ないのですから。
ただ、過去にはソクラテスの様に教えてくれる賢人は日本にもいらっしゃいました。
松平定信、中江藤樹、関孝和、伊能忠敬、勝海舟、上杉鷹山、二宮金次郎、湯川秀樹、岡潔、西田幾多郎・・・
先ずは「自分にとっての終着駅が何処にあるのか?」を探す旅も必要なのかも知れません。