顛倒妄想(てんどうもうそう)は仏教用語ですが、般若心経の中にも出てくる言葉なので、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。
意訳すると「価値観が、ひっくり返っていて、正しいと言うことが間違っていると思い、間違っている事が正しいと思っているさま」と言えば分かりやすいでしょうか。
もっと簡単に言うと「賢い人」を「馬鹿な人」だと思い、「馬鹿な人」のことを「賢い人」だと妄想している様子のことを指します。
しかしながら、この判断には「自分の物差し」や「他人の物差し」が使われるため、日々物差しを磨いていないと判断がつかなくなって来ます。
いや寧ろ、顛倒妄想に入ってしまいます。
だからこそ「智慧」が必要となって来ます。
「智慧」とは「情報」や「知識」とは違います。
いくら情報や知識を持っていてもコンピュータやAIには敵いません。
人間は、得た情報や知識や経験から「智慧」を生み出します。
人生における大切なモノを創り出します。
それを「悟り」という言い方で呼ぶ人もいるでしょう。
智慧は情報、知識、経験を掻き混ぜて、じっくりと熟成させないと出てきません。
また、その中から出てきたものを「正しさ」と言う篩にかけないと、良い智慧が残りません。
まるで砂金のように知恵も篩にかけ、智慧だけを沪しとります。
こうして得た智慧は、自分のみならず多くの人の役に立つツールとなる事でしょう。
偉人、賢人とは、こうした智慧をたくさん見つけた人の事を指すのかもしれません。